働きながら学ぶ人を紹介する「先輩インタビュー」
今回は東京大学大学院 学際情報学府 学際情報学 文化・人間情報学コースで修士号(学際情報学)を取得した関根雅泰さんです。
高校を卒業後、単身渡米。州立南ミシシッピー大学を卒業後に帰国し、2005年に(株)ラーンウェル、2016年にときがわカンパニー(同)、2021年に比企起業大学・比企起業大学大学院を設立、2022年に『研修評価の教科書』(ダイヤモンド社)を共著で出版するなど、八面六臂の活躍をしている関根さん。ユニークな経歴と先生との運命的な出会い、大学院での学びについて話を伺いました。
(株)ラーンウェル 代表取締役
州立南ミシシッピー大学卒。営業会社、研修会社を経て独立。2005年に(株)ラーンウェルを設立。企業内人材育成を支援。2010年、東京大学大学院 中原淳准教授(当時)の研究室に参加。研究分野はOJT。2013年、東京大学大学院 学際情報学府 修士号取得。2017年、地域人材育成のために、比企起業塾(現比企起業大学・大学院)を設立。6年間で、約40名が卒業、内半数以上が実際に独立起業し事業を継続。著書に「オトナ相手の教え方」(クロスメディア・パブリッシング)、共著に「対話型OJT」(日本能率協会マネジメントセンター)「研修転移の理論と実践」「研修評価の教科書」(ダイヤモンド社)「地域でしごと」(まつやま書房)等がある。
東京大学大学院 学際情報学府 学際情報学:文化・人間情報学コース
入学年月(年齢):2010年(38歳)
修了年月(年齢):2013年(41歳)
●高校を卒業後、単身アメリカへ渡る
———経歴を拝見すると、高校を卒業されて 1 週間で単身渡米。これはすごいですね。いつから考えていたんですか?
1990年に埼玉県立熊谷西高等学校を卒業して、卒業の1週間後に単身渡米しました。当時、西高は進学校で、みんな大学に行くんです。でも、自分はあまのじゃくなので、みんな行くなら俺は行かないよ、みたいな感じで。でも、高校卒業してすぐ就職するのも怖いなと、どうしようかなと悩んでいたときに、たまたまアメリカの大学に行っていた知り合いがいたんです。その人の話を聞いて、なんか面白そうだなと。別に日本にこだわらなくてもいいのかなと思ったのが 1 つです。
それから、当時はヘリコプターのパイロットになりたいなとも思っていて、アメリカのほうが学費も安く取得できました。そこで、大学に行くにせよ、パイロットの学校に行くにせよ、まずは英語を学ばなくてはいけないと思い、アメリカに行くことを決めました。
———ご家族は驚かれたのでは?
うちの母に聞いたら、自分で勝手に全部準備しちゃってたみたいです。それで、反対もできずに OK したと言っていました。日本の大学には当時はあまり魅力を感じなかったし、みんながなぜ行くのかわかんなかったし、他の人とは違う道を歩みたいという、ひねくれた性格で行きました(笑)。
———1991年に、2年制大学に入学したのですね?
まず、語学学校で9ヶ月英語を勉強した後、2年制のコミュニティカレッジと呼ばれる短期大学に入学しました。コミュニティカレッジは、地域の人たちが大人になってから戻ってこられる学校で、アメリカには結構あります。コミュニティカレッジを卒業すると、4年制大学に編入することができるので、そのまま4年制大学に進学しました。
———コミュニティカレッジはどんなところでしたか?
一番大きかったのは「学ぶのって楽しい!」と改めて知ったこと。授業が英語なので、英語がわかるのも嬉しいのですが、 1、2 年生の科目として、生物学とか数学とか歴史とか、基本的な勉強をするんですね。日本で言うと高校生レベルのことだったかもしれませんが、とても面白くて。「どうして日本の高校では面白いと思えなかったんだろう?」と。「日本の学校教育はどこかおかしいんじゃないか?」と思うようになり、もう少し勉強したいなと思うようになりました。
———どんなところが日本の教育と違ったのでしょうか?
日本の学校にいた時は、大学受験という目的もなかったので、何のために自分が勉強しなきゃいけないのかわからない中で勉強させられていました。一方で、アメリカでは親にお金を出してもらっていたし、授業もとても厳しかったので、必死で食いついていこうとしていました。いやでも能動的に参加していたから楽しいと思えたのかもしれません。
先生方の工夫もかなりありました。コミュニティカレッジで運命的な出会いをした歴史の先生がいるのですが、その先生は授業でテレビを見せたり、アメリカの漫画 cartoon を使ったりするんです。コミュニティカレッジにはバックグラウンドも年齢もさまざまな人が来るので理解力もいろいろなんです。スポーツをずっとやってきて1 回ドロップアップしちゃった人たちがもう一度学校に戻ってきたり、家庭の主婦が離婚して仕事を得るためにって学び直しに来たり。南北戦争の激戦地だった場所に連れていってもらう授業もあって面白かった。このときの経験が、のちに比企起業大学・比企起業大学大学院を設立することにもつながっています。
———1993年に、州から奨学金を得て、南ミシシッピー大学に入学されたんですね。
はい。奨学金を外国人にも出してくれたのがすごく嬉しかったですね。アメリカに恩を感じます。南部の大学だったのでメキシコとか中南米からの留学生も多く、 1990 年代は日本人や韓国人もたくさんいて、多様な人が同じ授業を受けて異なる視点から意見交換して刺激を受けました。
大学では文化人類学と国際関係学を専攻しました。いわゆるダブルメジャーというものです。コミュニティカレッジで自分は人に興味があるんだなあと思い、人についての学問を選びました。アメリカでは人類学を4つに分けていて、文化人類学と考古学と言語学と、あと骨を見る形質人類学があるんですね。
———南ミシシッピー大学に進学して良かったことはありましたか?
ここでShan Winn先生と運命的な出会いをしました。LGBT の方でろう者のご両親のもとで育った方なのですが、日本にも何度も来日していて、全世界を回って、白人のルーツは何かという研究をしていた方です。先生が書いた本がすごく面白くて。今でも仕事で大変なことがあるとこの本(Heaven, Heroes and Happiness: The Indo-European Roots of Western Ideology 2005)を開いています。仕事とはまったく関係がない内容なんですけど。
先生はアメリカ人なんですけど、エスノセントリズム(自文化中心主義)で物事を見ないし、男性女性差もない中で生きている方なので、「こんな人が世の中にいるんだ」と感動しました。授業もものすごく面白くて、どんどん世界が広がる感じがしました。
———さまざまな学びを経て1996年にHonor student(優秀学生)として、A評価を取り続け卒業、帰国。帰国後は小中学生向け学習教材の訪問販売会社に入社されたんですね。
はい、日本に帰ったら何か教育関係の仕事をしたいなと思っていました。飛び込み営業など大変な仕事もしながら、3年勤めました。その後、1999年に研修ベンダーに転職して営業と講師を経験しました。
でも、子供が次々に生まれるなかで家庭の時間を取りにくくなったことと、父が私が 32 の時に59歳という若さで亡くなったこともあって、このままでいいのかなと思うようになり、独立して2005年に33歳でラーンウェルを設立しました。
●中原先生と運命の出会い
———そこから5年後の2010年に東京大学大学院 学際情報学府 文化・人間情報学コース入学。中原研究室に参加していますね。この研究室を選んだ理由は?
中原淳准教授の『企業内人材育成入門』が 2006 年に出て、「これは黒船だ!」と衝撃を受けたんです。若い大学の先生で、こんなにも知見をわかりやすく説明してくれる人が研修業界に乗り込んできた。こんな人たちが来たら自分たちは潰されちゃうという危機感があり、学ぶなら中原先生のもとでと思いました。
実は、2007年にASTDに家族で行ったとき、中原先生にばったり会ったんです。そこで少し話をさせていただきました。その後、2008年にASTDに行ったときにも再会しまして。
そこで、2009年に先生に「先生の本を読んで感銘を受けたので、東大を受験して先生のところで学びたいです」と言ったら、しれっとした感じで「じゃあ、関根さんこれ読んでよ」と本のリストを渡されたんです。中原研究室ブックリスト 2009というもので、学習科学・教育学・経営学・認知科学・統計学のミニマムリストって書いてあるんですけど、 100 冊から 150 冊くらいあるわけです。
「こっちの世界に来るんだったらこのくらい当然読んでください」と。そんな感じで渡されたらムカつくじゃないですか(笑)。なので、「はい!わかりました、読みます。月に 5冊読んでブログにあげます」と言って、実行しました。先生は人をその気にさせるのがとてもうまいなと思います。
———大学院での2年間はどうでしたか?
辛かったです(笑)。東京大学を始めとする旧帝国大学はいわゆる研究系の大学院なので、教えてもらうことは経験済みの方が大学院に来るわけです。他大学ですでに修士を取っている人も多く、同期3人のうち 1人は修士号を持っている方でした。
グループ学習は他の人とのスケジュール調整が仕事との兼ね合いもあって大変でしたし、発表では自分の勉強不足を痛感しました。ロジカルなツッコミをいっぱい受けるんです・・・。中原先生いわく、「研究者は理論的にディフェンスしなくちゃいけない。関根さんはディフェンスがうまくできていない」と言われました。
楽しいことももちろんありましたが・・・辛かったですね(笑)。東大は3年かけて卒業しました。
———一番の学びは何でしたか?
先行研究の大事さを学べたのが大きかったですね。東大なので 一流の先生方がいらっしゃってすごく刺激にはなりましたけど、過去の研究者による先行研究を大事にすることを学びました。責任を持って発言するためにも、先行研究をきちんと学んでおくことが非常に大事だと思います。
———大学院での学びがご自身の生き方に影響を与えた点はありますか?
1つは、先行研究の大事さを学んだことで、これは卒業後もずっと続けています。それから、さきほどの 2009 ブックリストは今も持っていて、週に1回読んだ本や論文の抜き書きをブログにあげています。大学院時代からの習慣です。
もう1つは、大学院に行ったことで学び続ける大人と知り合えること。先生のご好意でゼミには OB として参加させていただいていて、そこで学び続けている人とずっと出会いをいただいています。
自分のような人間がいることで、若い人たちにも学び続ける大人の背中を見せられていればいいなと。子どもに対しては、勉強しろとは言わないですよ。でも、お父ちゃんがずっと勉強してるのを見ているので、なんとなく伝わってくれていればと思います。
●受験について
———受験準備はどんなことを?
まず、東大の本郷キャンパスで開催された説明会に行き、受験に必要なことを聞きました。東大ではTOEFLの受験と小論文の受験が必要です。一次試験は小論文3つを2時間で書かなくてはいけません。過去問は解いていましたが、この年(2009年)は今までの過去問とは傾向が変わっていました。予想外でしたが2時間頭を絞って、なんとか書きあげました。
———在学中の過ごし方(1日・一週間のスケジュール)は?
自営業なので、自分で授業やゼミに合わせ、仕事のスケジュールを調整していました。授業以外の勉強には、主に朝時間を使っていました。
●大学院=最新学歴を上書きしていく場所
———人生で大事にしていることがあれば教えてください。
言行一致・あまりかっこつけない・学び続ける、です。言行一致は、言ってることとやってることを一致させることです。例えば、弊社の「ラーンウェル Learn-well」という社名は「学び上手」ですので、その代表の自分自身が「学び上手」であることを心掛けています。あと、子供と約束をしたら、必ず果たすようにしています。「夕方、キャッチボールしよう」と言ったら、必ずやるとか。
あまりかっこつけないは、「あまり」です。ほんとは、かっこつけたいけど(笑)「あまり」かっこつけない。分からないことも多いし、間違えることもあるけど、なるべくさらけ出しています。全部自分でできる必要はないし、かっこつけない方が、周りの人からも助けてもらいやすくなるよ、と比企起業大学の仲間や子供達に伝えられたらと思っています。
「学び続ける」は、小さい会社の経営者としても、研究に片足を突っ込んでいる人間としても、学び続けないと、生き残れない、変化についていけないという危機感を持っています。幸い、比企起業大学の仲間に若い人たちが多いので、彼・彼女たちからも学ぶことが多いです。危機感と言いましたが、学び続けるのが、楽しいし、自分に合ってるからというのもありますね。
———最後に、関根さんにとって大学院はどんな存在ですか?
最新学歴を上書きしていく場所ですね。”最終”学歴ではなく、”最新”学歴。本間正人先生という学習学の先生が最新学歴というものを提唱されています。常に学び続けて、上書きしていく場所。だから、東大大学院が私にとって最終学歴ではないと思っています。
実は、うちの長女は高校卒業後すぐ就職したんですね。大学は本人が行きたくないと言ったので「なら、行かなくていいよ」と。そう言えたのも、最新学歴という言葉が頭にあったから。「学ぼうと思えば、あとでいくらでも学べるよ」と伝えることができました。